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時事関係から芸能関係まで色々と気づいたことを投稿しておくブログです。老壮青でいえば、ギリ青です。

【驚】本能寺の変を起こした明智光秀が土橋重治に書状で研究前進?

このほど本能寺の変を起こした明智光秀が和歌山で

織田信長で力を持っていた武将の土橋重治に送った

とされる書状の原本が見つかったとの事です。なんでも、

数年前に岐阜県美濃加茂市古書店でとある男性が購入

したものが現在話題になっている書状でした。内容と

しては織田信長亡き後、足利義昭を中心とした室町幕府

再興のためとの事です。まぁ、尽力して欲しいって事で

しょうか。

 

ところで、この土橋重治ですがかの山崎の合戦に参陣して

いたんでしょうか。すみませんが、その辺までは分かりま

せん。が、この書状は変後10日に見つかった物のようです

ね。それにしても、その日付まで分かるなんて凄いなぁと

思います。本能寺の変は6月2日で書状が見つかったのは12日、

合戦は13日なので紀州に12日に着いて13日の合戦に行くの

はちと無理のような気がします。行こうと準備してた時には

合戦が終わっていた事でしょう。姻戚の細川藤孝筒井順慶

に協力を断られほぼ明智単軍で戦いましたよね。また、この

土橋重治ですが織田家と対峙していたため土佐にも逃げた

りしていたようで本能寺の変直後にどこにいたかはちと不明

な所もあるようです。とすると、やはり軍勢を整えての参陣は

厳しかったでしょう。

 

さて、この書状が見つかった事で明智光秀が天下を取って

国を統治していこうという未来像を持っていたという説は

少々ぐらついてきましたね。つまりは、織田信長に変わって

国を収めようとしてのではなく冒頭にもありますように

足利義昭を中心とした室町幕府で今後も統治して行きたい

という願望があったのかもしれません。織田信長には色々と

イジメられていたという説が有力ですし、元はと言えば

足利家の家来でした。明智光秀がこの足利家と織田信長

橋渡しをしたにも関わらず足利義昭をないがしろにしていた

織田信長が許せなかったのかもしれませんね。世は茶の湯

政道とも言われた時代でした。うなぎ登りに様々な茶道具

を手に入れていた織田信長に対しても良い思いをしては

いなかったでしょう。茶室に入れば皆平等のはずが見せびら

かしになっていれば京の人間のこと線に触れたはずです。

その関係から明智に白羽の矢が立ったのかもしれません。

 

また、山崎の合戦後に生き延び東照宮の元を作ったのが

明智光秀とも言われております。この事からも自身の再起と

いうより世の平定を望んでいたのかもしれませんね。

 

それにしても、明智光秀が書いたとされる書状の原本が

普通に古書店に売っていたのかと思うと本当に驚きです

ね。私たちの身の回りのお店でもこのようなお宝が潜んで

いるかもしれませんね。探してみると面白いかもしれません。

以上